私はひねくれている

私はひねくれている。とても。

最近、映画『ヘルボーイ』を彼氏と観に行った。
私の感想は、最後の方、何が彼の決断を誘ったのか曖昧になっている所が想像の余地があり良かったと言うと、そんな深く考えるような映画じゃない。ただ人がいっぱいいろんな死に方で死ぬだけのところがいいんだよ、と返された。

しかし、わたしはそんなに人がいっぱい死ぬ映画とは思えなかった、というより思ってたよりもそんなに死なない、普通ぐらいだと思った。

ハクソーリッジの戦地シーンを10分も見ればいろんな死に方であれぐらい死ぬ。

たしかに、人がたくさんいろんな死に方で死ぬ映画とは聞いていたが、人の死に方、死んだ数よりも主人公ヘルボーイの心理の方に心惹かれた。

そんなに深く考える映画ではない、などと言うのは製作に関わった人に、原作者に失礼だと思う。

なぜなら、小説や、作文でもいい。何かオリジナルのストーリーを考えたことがある人なら、物語を話はじめて完結させるまでにたくさん脳を拗らせる。これでもかと悩みまくる。思想の子供を産み落とすような気持ちであり、完結させれたときには感動する。

それをなかったことにしてしまうのはとてももったいない。せっかく映画という壮大なアート作品があるのであれば、勝手に想像したり、ここがいい、ここが平凡だ、などと考察したい。

見終わった先にも楽しみが続くほうが、私は楽しい。考察しない映画はその二時間しか楽しみがないのだ。

私はひねくれている。
ただ面白い映画だったなー、と口に出して終わりはつまならい。


私はひねくれている。