悪夢を見た

とんでもない。


まあ、聞いてほしい。
私は今日こそ、本屋さんに行くと決めていた。
昨日の夜に、KADOKAWAとハヤカワのサイトもチェックした。

そして今日、6時半に起床、あさごはん、洗濯掃除ののち、用意がおわり9時。

9時に出ても本屋さんは開いておらず、10時に出ることにした。たった一時間、横にならなければ寝ることもなく時間通り本屋さんに行ける。

しかし私は悪夢で"目が覚めた"。

時刻は午後1時。12時に一度目が覚めた気もするが、しかし起きたのは1時だ。

なんてこったい。私は睡眠薬でも誰かに飲まされたのではないか?どうして横になったのだ!!!情けない。

それでもめげずに本屋さんに行くことにした。
脱引きこもりのためだ。


しかし、悪夢であった。
部屋を片付けないことを母親に怒鳴られて喧嘩になりカッターナイフでお腹と太ももを切りつけられる夢だった。姉にも父にも白い目で見られたのは私だった。私は抵抗してじゃあ死ねばいいんでしょ!とカッターを奪い取り手首を切ろうとすると止められる。私はわんわん泣いた。

こどものときの夢だった。

もちろんそんなことは一度だってない。しかし、実家を出た今も本を大量に放置しており、気がかりなのは確かだ。

気分が悪くなる夢だった。

夏の暑さのせいかな。

近況

真夏になりましたね。
私は今お腹がいっぱいだ。
夜ご飯に作った海鮮丼をたらふく食べた。
その結果、お腹が痛い。しかし私はアイスを食べる、食べたいのだ。お腹が痛いことは関係ない。


今日までの一ヶ月、ほぼ毎日朝6時半に起床し、朝ごはんを食べたらゴミを出して洗濯をする。ふぅーっと一息ついた隙に体が勝手に眠り始めてお昼ごろに起床。

お昼ごはんを食べて、掃除をして、ふぅーっと一息ついて眠り、起きると夕方5時、6時であり、あわててスーパーに行き、夜ご飯をつくる。

そしてごはんのあと、お風呂に入りぼやぼやして寝る。

まるで怠け者だ。もしくはパンダ辺りだろうか。もしかするとパンダの方かよく動くかもしれない。

なぜこんな生活か、というと仕事を辞めたからだ。ついに辞めたのだ。昨年末に、引きこもりになりたいと願い、いまや半引きこもりになった。願いは叶う、何度でも。

しかし働く意思がないのではなく、有休消化中なのだ。毎日家にいながらにして給料がある。しかしやることは何もない。

甥っ子の影響でポケモンカードを始めたものの、周りにやっている人はだれ一人もおらず、結局下火になってきた。

結果、ゲームセンターCXを見ながら本を読むだけの人間の完成である。

しかし勿体ない。時間があるのだから好きなことをするべきな気もするが、本屋さんに行くとATM通いが止まらなくなる。結局家だ。

お菓子なんかも作って食べたいが、ただでさえ動かないのに太るだけである。


これが引きこもりだ。

しごとやめて1日目

はぁ。


なんかね、ため息しか出ない。

なんか、昨日で出勤最終日で、このあとずっと退職まで有給消化なんですよ。で、とりあえず服ほしい!と思ってショッピング行ったんですけど、結局前から買おうと思ってたズボンしか買わなくて、いろんなお店でいろいろみたけど買わなかったんですよ。

周りの人たちみんな楽しそうだなーと思ったら悲しくなってきて、そこからため息しか出ない。私結局、服はあんりいらなかったんだと思います。だから画材買った。絵を描こうと思って。

なんでみんなあんなにたのしそうなんだろうね。私もあんな感じになってみたい。

なんか外行きたくなくなった。

筒井 康隆『文学部唯野教授』

筒井 康隆『文学部唯野教授


私は前の前の日記の最後に、文学部唯野教授の感想でも、と書いたのにもかかわらず違う作品の感想を書いた。申し訳ない。

人間たちの話を読みはじめて、しばらく読書ブームがまた来るだろうから、本がほしいと本屋さんに急いで行った。

二冊買った内の一冊が、 筒井 康隆さんの『文学部唯野教授』だ。

1990年の作品で、かなり重版されているベストセラー作品だ(岩波現代文庫で25版)。

内容は、文学部教授になったばかりの唯野教授が、教授という立場で周りの人間の出世欲のために翻弄される姿と、本人の授業の様子とが交互に展開されている。

私は文学部がいったい何の勉強をしているのかさっぱり分からない。小説を書くのか、小説や詞という文について勉強するのか。この小説にはどちらでもなく、文学というものを今までどう捉えられてきたか、分析されてきたかという文学を研究してきた人たちの思想についての授業であった。

私は、たとえば小説は書く人の込めた気持ちもあるだろうが、それは本人にが口を開くまでは誰も知らない。作者の込めた意味を想像するならそれはじゅうぶん小説を楽しめていると思うが、勝手に作者の込めた意味などという解説をする人は手に負えない。ただのナルシストで注目されたいだけだ。超能力者でもない限り、人の頭の中のことなど分からない。

想像と、決めつけることは別である。

最近、映画の解説などを見るとよくある。ここのシーンはさながら◯◯のようだから、この映画は反戦争映画だ。とか、ここの◯◯は子宮の中の胎児を現していて、、神様を現していて、、なんだそれと思う。

反戦争映画だと私は感じた、ならいい感想であるが、赤の他人が決めつけるのは気味が悪い。

それはあなたの世界だけで通用する話である。


話がまたそれてしまった。申し訳ない。

まあ、文学部唯野教授の中にもこうした小説とは作者のものか、読者のものかのような授業もあり、かなり楽しい授業だ。

そして教授の教授人生は走るばかりの大変な日常である。キャラクターそれぞれの精神描写はもちろん主人公である唯野教授目線からしか描かれないが、それでもその場の空気がよく分かる。皆の空気が。

いるのだ、そういう人が。会議で一人、ぶつぶつ文句をいい続けるもの、それが終わるのをただじっと待つ他の人たち。そこに一石投げて空気が凍る瞬間。それは実際に日常にあるのだ。

唯野教授の中にある空気は、現実の日常によくにている。時折するする、と話が進んでいってしまうことも。そのおかげで、唯野教授の日常は目まぐるしい。

この本の特徴の1つに、注釈が多いというところがある。

主に、大学内部の関係性、昇進制度と授業に登場する人物について。講義の中で興味を持った人があれば、さらに深く知ることができる。

私は講義の中で紹介された本にいくつか興味があり、実際に手にしたいと思った。

唯野教授の講義は生徒に人気がある。分かりやすさ、言葉遣い、テンポのよさ。確かにその通りだ。

文学というこ難しい部分は最小限であり(ほとんどが分かりやすい)、私にとって気軽な気持ちで読める一冊になった。

年齢的には高校生以上にオススメしたい。

筒井さん繋がりで、パプリカを買ったものの読んでいないので、そのうち読もうと思った。


今は、一昨日実家からいくつか本を持ってきたものを読んでいる。実家の本棚(とその山々)は、私にとって好きな本、興味のある本ばかりの図書館という感じがした。

ちなみに今は伊藤計劃を読んでいる。大好きだ。大人になった私に自分の頭で考えると言うことを教えてくれた。

ではまた。

柞刈湯葉『人間たちの話』

柞刈湯葉(いすかり ゆば)さんの『人間たちの話』(ハヤカワ文庫JA)

わたしは、漫画『日常』の作者あらゐけいいちさんの書く漫画、イラストが好きで、プラモデルのメカトロウィーゴーの箱絵があらゐさんだったから買ったし、本屋さんであらゐさんの書いた表紙のイラストを見ると手に取らずにはいられない。

が、しかし今回は逆。

柞刈湯葉さんのことは、横浜SFを読んで知りました。我々の生きる日常と少しずれた、あくまでの可能性の先にある世界を面白く書かれていて、他の作品も読んでみたい!と丁度思っていてTwitterを見たところ、短編集を出されたばかり、しかも表紙があらゐさん!と知り、仕事のお昼休みにすぐに買いに行った。


こういうとき、働いてよかったなと実感する。

働いてよかった点はいくつかあり、世の中には自分中心に物を考える人が居ると知ったこと、理不尽に怒られるということはよくあると知ったこと、恐怖政治は従う者の判断能力を鈍らせると知ったこと、そして働いて得たお金で欲しいものが買えること。

私は貧困家庭育ちなので、欲しいものなんて全然買ってもらえなかったが(親の代わりに姉たちがたくさんプレゼントをくれたので寂しくはなかった)、大人になってお金を手にしたらこうですよ。全てが本と税金となり消えていく。

いや、でもですよ、私は大人になってから誕生日、クリスマス、ことあるごとに何が欲しいか?と聞かれては『図書券』と答えますが、姉たち以外に貰えたことがない。図書券を何故渋るのだ大人たち。私が子供のころは喜んでくれたじゃないか。私は本が欲しいのだ。



心の声のせいで話がずいぶんそれました。すいません。閑話休題


さて、『人間たちの話』今までに出された短編を集めた一冊です。いすかりさんの小説は、なんといっても読みやすいこと。読書が苦手な人にもおすすめしやすい文体と設定。何度も言うが、やはり読みやすさは少なからず想像しやすいことが関係する。

たとえば場所についての描写がくわしく書かれている。それもストーリーの中に馴染むように。

物の形、色にも言及されており、想像しにくいことがない。

それ以外にも、SF小説であるが故に頻繁に登場する見たこともない宇宙人や、進化した生物。

それぞれも、やはり形、質感、どういった理由でそのような形をしているのかなど書かれており、理にかなっていて想像しやす要因のひとつだ。

私は信じやすいので、これが小説だと知りながらも、この話は(本の中の科学的部分)本当なのかも、、とわくわくした。私が少なからず生物学や量子についてなど興味があるのは、SF小説のおかげである。

どの短編もタイプが違い、とても読みやすいのだが、オススメは『重油ラーメン』と『人間たちの話』。重油ラーメンはゆかいな宇宙人たちの話だ。そしてラーメン。人間たちの話は、科学者が登場するので難しく思うかもしれないが、最大限に分かりやすく説明されていることと、科学の部分以上に人間のはなしなのである。人間という宇宙人の。


年齢的には中学生から楽しんで読めると思う。
この短編集はずっと手元に置いておきたい一冊になった。柞刈湯葉さんの次のお話しも楽しみにしている。

SF小説とはなんぞや

サイエンス・フィクション(英語: Science Fiction、略語:SF、Sci-Fiエスエフ)は、科学的な空想にもとづいたフィクションの総称。 メディアによりSF小説、SF漫画、SF映画、SFアニメなどとも分類される。 日本では科学小説、空想科学小説とも訳されている
(Wikipediaより引用)


お久しぶりです。

久しぶりすぎて、もう前までのお話しを読んでくれている方がいるとは思えないですが。

わたしもすっかり前になんのことを書いたか忘れたので読み直した。

そこで、SFの定義を知らないと書いてあり、冒頭にWikipediaさんから引用した言葉を載せた。

上記によれば、SFの定義にはサイエンス、科学的な空想にもとづいた要素がなくてはいけないよう。

科学的にもとづいた、なら分かりますが、科学的空想にもとづいた、とはどういう意味なのか?

まず科学とは、私たちの今生きているこの世界で体系化された知識や経験の総称という意味。

しかし、科学的空想とはなんぞや。

科学的となれば、科学にもとづいた根拠のある事実であることが前提。とするならば空想はなんだ。


空想(くうそう).ファンタジー · 空見のこと。 その時点では実現されていないことに対し、頭の中で実現している場面を想像すること
(Wikipediaより引用)


まとめると、科学に関係する、科学の性質をもった現時点では存在しないが想像できることになる。

なるほど、そう言われるとSFの意味が少し見えてきた。

となると、現時点で実現している科学技術を披露する小説は科学小説であろう。(科学捜査を題材にしている作品等)

実現している以上の科学的表現が必要だ。

大切なのは科学の性質を持っていて実現している以上の想像できることなので、ドラえもんのグルメテーブルかけはSFになりそうだ。(何故なら物体を瞬間移動させる技術はないが、グルメテーブルかけは必ずしも物体の瞬間移動である必要はなく、瞬時にその場で調理されテーブルに乗せるなどの方面で見れば私には現実的に思える)

しかしそこは小説、ユニコーンが登場するだけならファンタジー小説だが、そのユニコーンを科学にもとづいて作る過程があるのなら、それはSF小説になりそうだ。

ただしどの場合も、過程が必ずしも科学的である必要はないと言える。何故ならば、たとえユニコーンの作り方が煮詰めた豆スープにニンジンをいれたらできる、という場合でも作者がSFであると言えばSFであるし、読者がSFだと感じればそれはSF小説である。用は個人の感想、ここに分類すると決めるのは結局個人だ。

たとえば私が読んだ小説に、テレポーテーションが出来る主人公がいるとする。それならファンタジーだと考える。

しかし、主人公を取り巻く環境に科学が絡むとややこしい。

主人公は科学者で、研究室が頻繁に登場し、同僚の科学者が量子のテレポーテーションについて研究をしているとする。

本人のテレポーテーション能力については詳細は一切不明であっても、読者の私としてはもしや、同僚の研究と関係あるのでは?と結びつけてしまい、ここまでくるとただのファンタジーではなくSF小説だと思いそうだ。

しかし、よくよく考えると主人公のテレポーテーション能力には科学的根拠は一切なく、同僚の研究もわかる人が読めばすぐに現実の科学の領域を出ない。

つまり、ファンタジーと科学小説の組み合わせだ。この二つの組み合わせはSFだとするのが、この二つの要素に科学的空想がないからSFではないとするのか、やはり個人の問題である。

小説を何系か、と分類が必要なのは確かだ。
検索のさいに便利である。私のように、本を紹介するさいも便利だ。または出版社が宣伝に用いるためにSFとすることもある。または作者の意向。


ここまで書いて分かったことは、何がSF小説かそうじゃないかなんてどうでもいいに近い。読む。それで十分だ。本の世界観を表すために用いる単語として理解していこうと決めた。

科学的にもとづいた提示がなくとも、私がSFと感じ、人におすすめするときにそう伝えたい場合は用いることにする。

なお、この議論にゴールはないとみた。



長々とありがとうございます。

次は人間の話し、文学部唯野教授の感想でも。